ponbooのブログ

夫婦二人で障害者年金で生活

旦那の病歴と別居のこと

それからしばらく離婚の意思を伝えましたが主人は私がいないと生きていても仕方ないもう一度やり直してくださいと言いました。両親は主人のお金が欲しかったのです。
入院費もいえのローンも主人の食費まで私の貯金から出してました。両親は私に主人を渡すべく必死に懇願、散々嫁いびりしたくせに、何様?仕方なくもう一度やり直すことになりました。主人は社会復帰したくて必死でした。今の医師は余り患者さんを増やさず、第一月曜日に電話が繋がった人だけ看るという特殊な方法でした。運良く電話が繋がり治療が始まりました!薬を全て変えて主人はディケアに通い初めて落ち着いて来ました。
アメリカではこの薬を飲むからと当時新しい薬が当たり、会社から関西転勤で社会復帰することになりました。初めは順調に行ったので私の苦労もやっと報われた。嬉しかった。
しかし2年も経つと仕事は休みがち早退がめだつようになりました。関西の医師は躁鬱病
に詳しくはなかったようです。沢山の薬を出して自分の体調に合わせて飲んで下さいという治療で躁状態を見抜けぬ医者でした。軽いうつ病ならそれでも何とかなるけれど、主人は毎日私に電話で今こんな症状が辛いから医師に相談してというので毎日のように医師と電話で話しをしたり、主人が病院に行ったり、少しずつでも良くなっていれば希望も持てたけれども、仕事早退してインターネットで買い物、夜中に車を触る等めちゃくちゃでした。一見普通に見えるから医師は会社に行きたくないのだろう。仕事に這ってでも行きなさいの一点張りでした。関西に行って6年後 長期休暇命令が出ていえに帰り前の医師に相談すると仕事にいけないのは病気の波だと教えられ、元のように働けないから将来的に楽な仕事に就けるようにしなさい。転勤はダメだと強く言われて2017年1月退職して現在の状況に至ります。まだまだ お先真っ暗のトンネルの中です。


旦那の病歴と別居していたこと

社会復帰して2年後、主人は 具合が悪くなり、傷病手当金の生活になりました。
色々な薬を試しても全く だるい 気力が無い。でも昼間は車の様子を見たりインターネットで買い物をするようになりました。躁状態が始まり、暴れたり、椅子を投げる等、もう説得等、聞かない状態になるのです。本人も焦っていたようで入院することになりました。私は毎日お見舞いと様子を見に行きました。医師は週1から週3回と家に帰り、私に様子を見て欲しいと言いました。退院後、社会復帰した主人は休みながらも仕事を続けました。4か月経った時に外車を買うと言い出したのです。2300000円のシボレー、当然
医師も私も反対しました。車二代目いらないし維持費が無いと説明しても躁状態の主人に通用しないのです。ある日恐ろしいことにナイフで私の靴を切り裂き、スプレーを出して
ライターで引火させて私を追い出しました。消火器かけられました。目つきも変だった。殺されると真剣に思ったので実家に戻りました。何回も迎えに来たけど離婚しか頭になかった。保健所や法律事務所に相談しましたが本人の意思が無いと入院は難しいとのこと。30000円を1日で使う浪費、主人の両親が来て私も呼ばれ再度違う病院で入院半年、医師は、もう治らないから離婚して主人は両親の元に返して気楽に生きていく方法が一番だと説得されました。双極性感情障害とは恐ろしくて悲しい病気です。3か月もすると躁状態は抜けてうつ状態になりましたが今度はまともに歩くのもやっとの状態でした。
今度は死にたいと言い出しました。医師は障害者年金の手続きを進め、抗うつ剤を飲ませました。また躁状態です。初めは嫌がっていた両親も障害者年金が入ると知ってから自宅に連れていく姑がうつ病で通っている病院へ連れていくと言い出したので私も恐い思いが忘れられず、主人は両親の元、私は実家と自分の家に住み、完全別居になりました。
私はその間どの医師にも離婚を進められました。主人は毎日泣いて☎してきました。
主人の通っていた医師は躁鬱病は勿論うつ病も治せないやぶ医者で主人はろれつも回らない昨日のことも覚えていない酷い状態になったのです。もう両親のいえでずっと治療する。私の医師はどうしても離婚の決断ができないなら両親の家に行って様子を見て判断するように進めました。それを言うと断固拒否され、私のせいで病気になったとなじられました。私は離婚の意思を決めて本人と両親に告げると、それは困る。息子の面倒を見たら破産する。でも私は選ぶ権利があると主張しました。 つづく

旦那の病歴と別居していたこと

元気な頃の旦那は、仕事熱心で真面目で優しいとても気の合うパートナーでした。
26歳で結婚したので新婚生活もギリギリでしたが毎日平和で楽しかったです。
段々と仕事が増えて営業 ショールームの店長 イベント開催等人の3倍仕事は働いてましたね。それが自分の誇りと自信だったと良く言います。営業で1位になり、社長賞も頂きました。
病気の始まりは同期6人のうちの2人は課長になれなかった その一人が旦那でした。
旦那はあれだけの仕事量をこなしていたのに何故か?動揺 会社の怖さ 裏切りを強く感じたと思います。それから不眠症になりました。おやすみ三秒で寝つき良いのが旦那の特技だったのに...2000年9月です、近くの病院で睡眠薬と安定剤を処方されて仕事は続けていました。翌年課長に昇格し違う部門の営業になり、1年、2年と経つうちに仕事も慣れて健康も回復しつつありました。お互いに良かったと喜び結婚10年のお祝いに軽井沢
に行きました。楽しい3日間でした。平成14年8月のことです、帰り道に車の中で信号待ち時、後ろから激突されました。相手は飲酒運転で泥酔状態だったので酷いむち打ち症になり二人共身体の痛みで
眠れず睡眠薬で寝ました。旦那は1か月仕事を休み、無理して仕事に行きました。
私は左腕が強く痺れ物を掴むこともできませんでした。首痛 頭痛 背中 足痛 全身の痛みは2人共2年程続きました。平成16年旦那の仕事中に、いきなり電信柱に車でぶつかって死のう...と思った瞬間怖くなり上司に電話して傷病休暇を取ることになりました。東京の病院まで通い、初めはうつ病の診断でしたが 1か月経った位に百万円の借金していることを私に告げました。躁鬱病だと思い、恐ろしくなり、次の日の病院の診断はやはり躁鬱病でした。医師は旦那を観察する事、1人にしたら何千万借金するかもしれません。私はショックで倒れそうでした。百万の借金も許せなかった。内容は車の改造でした。銀行から借金をしてました。むち打ち症になって双極性障害になってしまった。大変な事になった。7か月休養して社会復帰した旦那は、すっかり治ったように見えました。残業も出張もして、本人自信も安心していたようです。     つづく